トヨタ自動車の歴史

世界的大企業となったトヨタ自動車は、どのような歴史的変遷を辿って発展してきたのでしょうか? そして、その未来に待ち受けているものとは?

トヨタ自動車の歴史を「過去と未来の物語」という視点から、眺めてみたいと思っています。かなり長文のように思われるかもしれませんが、トヨタ自動車の歴史を効率よく俯瞰するのには、最適の長さになっているのではないかと自負しています。 

トヨタ自動車の源流

トヨタ自動車は、1933年(昭和8年)に豊田自動織機製作所(現:豊田自動織機)内に自動車部として発足し、1937年にこれを分離独立させ新会社「トヨタ自動車工業株式会社」として設立しています。翌38年に挙母工場(現:トヨタ本社工場)を完成させ、本格的生産を開始しています。

いまでは、従業員数、約7万人(連結会社合計約31万人)、自動車販売台数で、国内第1位はもとより、世界でもトップを競う大企業に成長しています。

トヨタ自動車は現在、愛知県豊田市に本社がありますが、「豊田市」は市制を敷いた当初は「挙母市 (ころもし)」という名称で呼ばれていました。しかし、トヨタが順調に発展し自動車産業が本格的に軌道に乗り始めると、1958年(昭和33年)に商工会議所から挙母市長宛てに市名変更の請願書が提出されるという事態になりました。挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」の読みが難しいという理由です。

「挙母」という地名に、歴史的愛着を持つ市民も多く、賛成と反対で市を二分するほどの議論が展開されたようですが、翌1959年1月、正式に名称が「豊田市」に変更されることになりました。因みに現在、本社所在地も「豊田市トヨタ町1番地」になっています。「豊田市」が典型的な企業城下町であるということです。

そのトヨタ自動車の源流は、明治の織機王・豊田佐吉にさかのぼることができます。1910年(明治43年)初めてアメリカ視察に行った佐吉の目にとまったのが、道路を行き交う自動車の多さでした。このとき佐吉は、これからは自動車の時代だと痛感した、とされています。「日本も立派な自動車を生産できるようにならなければ、とても工業立国などとは言えない。豊田もどうにか自動車を生産できるようにならなければ…」これが、トヨタの自動車生産の嚆矢とされるものです。事実、帰国後すぐさまスチームエンジンの研究に着手するなど、自動車づくりに第一歩を踏み出しています。

このとき佐吉43歳、なぜアメリカに行ったのか? これより4年程前、1906年(明治39年)12月に佐吉は三井物産の斡旋により「豊田式織機株式会社」を設立しています。そして、1908年(明治41年)にH式鉄製広幅動力織機を完成させました。

この鉄製広幅動力織機は、永らくわが国がめざしてきた西欧の近代動力織機の技術水準に追いついた記念すべきものでした。これまで使用されてきた英国プラット社製の織機とまったく遜色のないものだったのです。このニュースはたちまちのうちに業界関係者のあいだに広まりました。

しかし、このときは、わが国の不況の時期と重なり会社の業績不振を招き、会社設立の約3年後1910年(明治43年)4月には、技術開発ばかりにこだわりコスト高を招いたとして理不尽にも佐吉が責任を取らされるかたちで常務取締役を辞任に追い込まれてしまったのです。こうしたなか、心機一転のためアメリカに向かったのでした。

帰国後、自動車の研究に着手し、環状単流原動機の特許を取るなどした佐吉でしたが、当時はまだ織機の改良・開発に重点がおかれていたため、自動車に関しては佐吉自身の手によるそれ以上の進展はありませんでした。

自動車の開発に関しては、長男・豊田喜一郎の登場を待たねばなりません。喜一 郎は紡績機械の製作工程実習のため、1921年(大正10年)から約1年間アメリカとイギリスに渡っています。英国ではプラット社で工場実習をしています。喜一郎はこの洋行のとき、自動車の多さに大きな驚きをおぼえ、自動車製造に強い関心を持ち始めます。

さらに、自動車製造の本格的研究を決心させたのは、1923年(大正12年)の関東大震災でした。当時の日本は、市電や鉄道がおもな交通機関でしたが、 震災によりそれらすべての機能は停止してしまいました。その廃墟の中で唯一、復興に重要な役割を果たしているのが自動車だったのです。自動車こそが、これからの交通機関で最も重要な地位を占めるようになることを確信した瞬間だったのです。

佐吉の発明家としての遺伝子を受け継ぐ、長男・喜一郎は、自動車製造の夢を抱きながらも、まずは家業の織機の研究に邁進しました。そして、1924年(大正13年)12月G型自動織機の開発を成功させています。この「G型自動織機」こそ、開国以来、日本が取り組んできた欧米の近代織機技術を完全に追い越す、きわめて生産性の高いものでした。

  
    (豊田G型自動織機)

ちなみに、巷間このG型自動織機は佐吉が開発したといわれてきましたが、これは当時、自動織機の発明王としてカリスマ的存在だった佐吉が発明したことにしたほうが、G型自動織機を販売する面では有利だと考えたからだと言われています。

そして、この豊田G型自動織機を大量生産するために設立されたのが「㈱豊田自動織機製作所」 です。1926年(大正15年)のことです。喜一郎は、このとき32歳、常務としてその先頭に立つことになりました。このG型自動織機は、次々とわが国の紡織会社に納入されていきました。鐘淵紡績、倉敷紡績、大日本紡績、呉羽紡績、日清紡績など、日本のおもな紡織会社にほとんど納入されたといってもよいでしょう。

当然、つぎに狙うのは海外市場でした。中国、朝鮮はもとより、インドにも輸出されました。それはアメリカにもイギリスにも伝えられました。長らくインド を繊維機械の重要な輸出先としていたイギリスには、大きな衝撃だったようです。それは、アメリカやイギリスの企業からも特許権の譲渡を申し入れてくるほどの最大級の評価を得たものだったのです。

1929年(昭和4年)喜一郎は、特許権の譲渡交渉のため、まずアメリカに渡りました。表向きは、G型自動織機の特許権譲渡交渉のための渡航でしたが、 譲渡交渉のほとんどは同行した社員たちにまかせ、じつは密かに、自動車製作に必要な工作機械の性能や価格調査のため、連日、工作機械の工場や自動車工場を歴訪していたのです。

この頃のアメリカは、欧州で誕生した自動車を、強大な工業力を背景に自動車産業として確立させ、前回8年前に渡米したときより、さらに多くの自動車でにぎわっていました。このアメリカを目の当たりにして、喜一郎は「自動車への夢」を実現するために、いよいよ行動に移す時が来たことを自覚しました。

そして、翌1930年(昭和5年)にイギリスに渡り、当時世界最大の織機メーカーであったイギリスのプラット・ブラザース社との協約調印交渉を行ないました。このときも交渉は社員にまかせ、自動車関連工場を回り自動車産業の実情をつぶさに研究していたと言われています。

とまれ1930年12月に「豊田・プラット協約(豊田・プラット協定)」が成立しました。このとき得たG型自動織機の特許料10万ポンド(邦貨100万円:現貨幣得価値換算およそ40億円)が自動車開発の資金になったと言われています。

もっとも、この資金のすべてが自動車開発に使われたわけではありません。10万ポンドがプラット社から一度に支払われたわけではなく、まず契約時支払金 として2万5000ポンド(25万円)を支払い、その後の3年間、プラット社は毎年2万5000ポンドずつ支払い、その合計額が10万ポンドであるということです。

どのように使われたかというと、25万円(現在の約10億円)のうち10万円は発明に際して苦楽を共にした関係者に、残り15万円を9工場6000人の 従業員に特別慰労金として配られたそうです。15万円を6000人に分配したのですから、一人平均25円(現在の約10万円)になります。

しかし、これで喜一郎が、父・佐吉から「わしは織機をつくってお国に尽くした。お前は自動車をやれ」と言われていても、すぐさま永年の宿願である国産自 動車の開発に取りくめるほど、社内の事情はそう簡単ではなかったのです。というのは、自動車製造というものが、これまでの自動織機の製造技術の延長線上にあるのは一部だけで、そのほとんどが新たな技術開発を必要とし、実際につくれる可能性は非常に低いと思われていたからです。

さらに自動車事業には、喜一郎自身も認識していた難しい理由があったのです。つまり、莫大な設備投資をして、何百人という人を一生懸命に働かせても、自動車が一台も市場に出ないということもあり、しかも、最初の数年間は必ず赤字になることは明白だったからです。自動車事業というものは、自動車を開発製造する技術だけでなく、大規模な生産ラインの建設、各種部品工場との調達システムの確立、全国的な販売網の構築など、織機製造の比ではなかったからです。

しかも、当時は、日本に組み立て工場を持っていた米系法人の日本フォード社、日本GM社が日本市場のほとんどを独占し、三井・三菱などの巨大財閥でさえ自動車事業を危険視して手を出さない状態だったのです。

「御曹司の自動車狂いには困ったものだ」というのが社内の大概の空気でした。

しかし、喜一郎自身にその可能性に自信を持ったのが、1930年(昭和5年)にスミス・モーターという小型のエンジンの試作に成功したことだと言われて います。それから喜一郎は、自動車製造の研究に精力的に取り組んでいくのですが、それは工場の片隅で、しかも他の社員から目隠しするように行われました。

そしてようやく、ある程度の研究の蓄積ができ社内の説得に成功した喜一郎は、会社の組織変更をして「自動車部」を立ち上げることができました。1933年(昭和8年)9月のことです。翌1934年には、試作工場とともに材料試験室を建設し、鉄の研究も開始しました。

そして苦心に苦心を重ね、喜一郎とそのメンバーは1935年(昭和10年)5月、「A1型」(エーワンがた)と名付けられた試作乗用車第1号を完成させました。しかし、この乗用車を試作したところ思わぬ事態を発見しました。それは、ボディー製作が予想以上にむずかしく、しかも巨額の資金を費やしたことでした。

  
      (A1型)

そこで喜一郎は、初めから乗用車に挑戦するのではなく、むしろ比較的やさしいトラックから手をつけ、その基礎をもとに大衆乗用車の量産に向かうべきかもしれない、と考えるようになっていました。

おりしも「自動車製造事業法」制定の噂が飛び込んできました。この法律の目的 は、戦時下における自動車生産行政の要として、日本フォード・日本GMによる攻勢を抑え、同時に軍および民間の自動車需要を、国産車で満たそうというものでした。(もっとも、1937年には、支那事変のため円相場が下落、輸入価格の上昇により、まもなくフォード・GM・クライスラーの3社はついに日本からの撤退を余儀なくされました。)

この自動車製造事業法が制定されれば、許可会社でなければ新規に自動車事業を興すことがほとんど不可能になること、その資格を得るための条件であるトラック優先に方針変更しないかぎりトヨタの発展は望めない、ということがわかってきました。

   
      (G1型)

そこで、喜一郎は「A1型」乗用車の試作を3台で打ち切り、トラックの試作に取り掛かることにしました。8月には「G1型」トラックを完成し、11月に展示会を開催し発表しました。こうして喜一郎は、企業の基盤を確立するためにトラックの完成を優先させましたが、もちろん所期の目標である「大衆乗用車の大量生産」をあきらめたわけではありません。

1936年(昭和11年)2月、乗用車の試作を再開、同年6月に試作車を完成、これを「AA型」 乗用車として生産・販売することを決定しました。当時としては画期的な流線型のスタイルでオールスチールボディーでした。このクルマの完成記念展覧会には、3日間で2万人の来訪者があったと伝えられています。この時期すでに国内で、国産乗用車への関心が非常に高かったことがうかがえます。

  
      (AA型)

なお、同年5月に「自動車製造事業法」が制定されていましたが、9月に㈱豊田自動織機製作所が、日産自動車㈱とともに自動車製造事業法の許可会社と認められました。

そして、挙母工場(現:本社工場)の建設資金の調達と、織機製造から自動車製造を完全に分離させ自動車生産の合理化をはかるため、1937年(昭和12年)8月、新会社「トヨタ自動車工業㈱」を設立しました。

翌1938年(昭和13年)11月3日には挙母工場の竣工式が行われ、喜一郎により神前に、父・佐吉の遺志を継ぎ自動車工業に全霊を捧ぐ旨の宣誓が行われました。ここにトヨタ発展の礎が築かれ、以来「トヨタ自動車工業」は、国産車の製造販売に全力を投入、量産・量販による大衆乗用車事業の確立という、喜一郎の夢に向かって邁進していくわけです。喜一郎44歳のときのことです。

無念の工販分離?

しかし、そのトヨタ自動車も発展は順風満帆だったわけではなく、1949年(昭和24年)からのいわゆる「ドッジライン」による金融引き締めの影響を 受け、日本の産業界が瀕死の状態のなか、トヨタ自動車も経営難に陥り「年末資金の2億円の融資がなければ倒産する」事態に至りました。

このときトヨタ自動車は日銀に2億円の融資を要請、日銀は300以上ある下請企業への波及を恐れ、金融機関をとりまとめ、ただちに融資を実行することを決定しました。

日銀のこのときの担当者は、日銀名古屋支店の高梨壮夫です。高梨は、トヨタ自動車という会社が単体として存在するのではなく、下請けを含めて300社以上もの巨大な複合体として存在していることに注目せざるをえませんでした。

このトヨタを倒産させることは、これらすべての会社をトヨタともに見捨てることになる。その従業員の多さを考えると、その影響は計り知れないと思ったのです。

ただちに高梨は、東海銀行・帝国銀行ほか20数行による「融資斡旋懇談会」を開催しました。喜一郎は、その席で銀行団に向かって、涙ながらに自社の存続を嘆願しました。

この嘆願は、トヨタが存続するかどうかの、まさに土壇場に立たされた男の乾坤一擲ともいうべき舞台でした。集まった銀行団も、その真摯な姿に心を動かされることになります。

いっぽうで高梨は、「日本に自動車会社は必要ない」という、一万田日銀総裁の説得にかろうじて成功しました。こうして、ようやくトヨタは、瀕死の瀬戸際から蘇ることができたのです。

しかし、その銀行団からの緊急融資の条件の一つが、「トヨタ自動車工業株式会社(トヨタ自工)」から、販売強化のために販売部門を分離独立させ、「トヨタ自動車販売株式会社(トヨタ自販)」として設立することでした。

この「自工」と「自販」の分離は、略して「工販分離」と呼ばれます。

しかし、この「工販分離」は見方を変えれば、喜一郎にとっては予定が早まったという側面もないではないのです。というのは、のちに「販売の神様」と呼ばれる神谷正太郎との最初の出会いのときに「販売は、あなたに任せてもいい」と言い切っているからです。

もっとも今では、この「工販分離」案は、融資を受けやすくするために、神谷のほうから銀行団に示唆したものであるという説が有力です。

このころのトヨタは経営的に本当に苦しかったようです。資材がまともに調達できず、生産するための費用もない。それでも下請けの部品メーカー各社は、わずかながらも闇市からでも資材を調達して部品を作り納入してきました。トヨタは、それらの部品が集まると今度は販売店から資金を借りてきて、クルマを生産するような状態だったようです。

この経営危機は、1700人規模の人員整理と、1950年6月からはじまる朝鮮特需による受注によって、ようやく乗り切ることができました。

「トヨタ自販」の設立は」1950年のことですが、「工販分離」は、1982年にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併、現在の「トヨタ自動車株式会社」となるまで、32年間つづくことになるわけです。

この「工販分離」は、融資の条件となったため承諾せざるをえなかったものですが、このことが、同じく同規模の人員解雇を実施せざるをえないという、よく似た状況にありながら金融機関とのつながりが強かったおかげで、販売部門の分離をまぬがれた最大のライバル日産自動車を大きく引き離す契機になるという、皮肉な結果に気づいたものは誰もおりませんでした。

「工販分離」は、これまで一丸となって自動車製造に邁進してきた一つの組織が、銀行団という外圧によって分断されるという、社外からは屈辱に映ったかもしれません。

しかし、この「工販分離」によって、「トヨタ自販(トヨタ自動車販売株式会社)」は、自分の持ち場を確立するため猛然と、全国に販売網強化のための布石を打ち始めたのです。すなわち、国内の素封家や地場資本のなかから有能な経営者を発掘し、全国に最強のディーラー網を築きあげるという、地元資本を巧みに利用した戦略だったのです。

もっとも、こう述べると販売網の創設がいかにも簡単に行われたように思われるかもしれませんが、当初、販売網の創設に関しては、社内の意見は下記の3つに分かれていました。

  1. 地元資本によってトヨタ車の専門ディーラーを設立し、いわゆる「フランチャイズシステム」として全国に販売網を確立する。
  2. 実績のある外車販売店とトヨタ車の販売契約を締結し、併売制によって全国に徐々に販売網を拡大する。
  3. 自己資本によって支店を全国各地に展開し、販売は直売方式をとる。

むろん、1.の意見を採用したことが今日の販売力をもたらしたことは間違いありませんが、さらに販売店にたいしては、販売店の繁栄なくしてトヨタの繁栄 はありえず、販売店とは運命共同体であるという姿勢を貫いたことが、徐々に外車販売店からトヨタのディーラーに転換するという状況も生み出しました。

こうしたなかトヨタ自販は、次第にマーケティング力も向上し、売れる商品をトヨタ自工に進言、それを自工がコストやデザイン面などで競争力ある「クルマ」を造るという好循環が生まれたのです。

いっぽう日産自動車は、「工販分離」という推進力?を持たなかったため、販売網の構築で、トヨタに後手を取ることになってしまいましたが、これはあくまで相対論で、トヨタが「工販分離」という局面にたたされなければ、販売力で、そう簡単にトヨタに遅れを取るということはなかっただろうと思われます。

国内販売網の構築で後塵を拝する形になった日産自動車は、本体が「人」も「資本」も出す直営ディーラーへの依存度を高めるしかなく、両社の販売力の差はますます大きくなったわけです。「技術の日産」に対して「販売のトヨタ」と評された所以です。

複数販売店の採用

工販分離後しばらくは、トヨタ自販は、地元の有力な資本と人材を活用し、販売店は一県に一店ずつ設立し、トヨタは資本も人も販売店の経営には直接参加しないというフランチャイズシステムを採用してきましたが、1952年頃にはこの基本政策を変更せざるをえない状況が発生してきました。

というのは、当時東京都における乗用車市場が全国の30%以上を占めていたのにもかかわらず、トヨタの市場占有率は、これを大きく下回っていたからです。これを打開することが、トヨタの当面の大きな課題となっていました。

これを打開する手段として取られたのが、既存の東京トヨタ㈱のほかに東京トヨペット㈱を設立することでした。しかし、当然ながらこのことは販売店側からの大きな反発を招きました。トヨタ自販みずからが販売店に資本投下することと複数販売店の採用が、販売店経営を圧迫する恐れがあるからです。

これに対して、どう販売店側を説得したかというと、

東京でのトヨタの市場占有率の確保は、結果としてのトヨタ車のコストダウンを可能にし、それが全国の販売店の利益を増加させる。
この複数販売店の採用は、あくまでも東京市場の特殊性を重要視したものであり、これは全国的な販売店政策に変更を及ぼすものではない。
というものでした。これによってようやく、1953年に東京トヨペット㈱が設立されることになりました。

しかし、その2年後には、この言葉を反故にせざるをえない事態となりました。それは小型三輪トラック市場の切り崩しを狙って投入したトヨエースの販売不振でした。この事態を改善し販売増大を図るためには、全国的に新しい販売チャネルを創設する必要があると判断されたわけです。1955年12月のことです。

翌1956年1月、これを販売店側に明らかにしました。これまた当然のごとく既存の販売店側からの大きな反発を招きました。トヨエース・マスターライン (商用車)の販売をはずされ減収が見込まれるだけでなく、複数販売店制は東京市場の特殊性を考慮したものであり他の地区には波及させない、と言明したいきさつがあったからです。

結局は、販売店側がトヨタ発展のためのやむをえない措置として、納得せざるをえませんでした。トヨタ自販経営陣にとっても、苦渋の決断であったと伝えられます。

これによって、各府県に一店ずつトヨペット店が新設されることになり、1957年にはトヨタの販売網は、既存のトヨタ店(○○トヨタ自動車㈱で統一)と新設トヨペット店(○○トヨペット㈱で統一)を合わせて100店となり、トヨタの販売体制が著しく強化されることになりました。また、このとき、他社に先駆けて複数販売店制を確立し、全国各地の有力な資本と人を吸収できたということは、戦後の販売網編成の時と同じようにトヨタにとっても大きな収穫でした。

その後、トヨタはこの複数販売店制を押し広げ、1957年にトヨタディーゼル店、1961年にパブリカ店(のちにカローラ店に名称変更)、1967年にトヨタオート店(のちにネッツトヨタ店に名称変更)を設立。このパブリカ店とトヨタオート店の創設によって、大衆車の販売を担当する2つの強力な販売チャネルが確立され、トヨタは大衆車市場における圧倒的優位を揺るぎないものにしたといってもよいでしょう。

かんばん方式

トヨタの強さは、販売力ばかりにあるのではありません。その強さの源泉は、トヨタ生産方式(TPS)と呼ばれる組織力にも求められます。TPSは、在庫削減や品質向上に有効な手段とされ、いまや日本の自動車メーカーばかりでなく世界のほとんどの自動車メーカーに採用されるようになりました。

1913年、ヘンリー・フォードは自動車組み立て工場にベルトコンベヤーを使った流れ作業で大量生産を可能にする方式を確立しました。それによってクルマ社会を出現させたフォードは世界一の自動車会社となりました。

それに挑戦したのがGM(ゼネラル・モーターズ)で、同じライン上で多種多様な車を生産できるように工夫し、1931年にフォードを追い抜いて世界で第一位の自動車販売実績になりました。しかし、この方式の欠点は、さまざまな車種の部品を常に在庫しておく必要があり、その費用負担が大きかったことです。

そして、そのGMを今や追い抜かんばかりの勢いなのがトヨタで、その原動力となったのが「かんばん方式」だと言われています。

欧米の自動車事情をつぶさに観察していた喜一郎は、1938年(昭和13年)挙母工場(本社工場)をつくるとき、「倉庫が必要であるという常識をなくしてみろ」と指示しました。これはジャスト・イン・タイム(必要なものを必要なときに必要なだけつくる・運ぶ)の本格的な実施を意味していました。

喜一郎のはじめた「ジャスト・イン・タイム」と「自働化(異常があったら止まる・止める)」という二つの基本思想を柱に、1950年ごろから一部の工場で活動が始まり1970年までに体系化された手法が、全社的に展開されるようになり、それらの各手法がまとめて「トヨタ生産方式(TPS)」と呼ばれるようになりました。

1963年頃にはトヨタ自工は、トヨタ生産方式の基本であるジャスト・イン・タイムを実現させるための一つ手段として「かんばん方式」 を確立しました。これは簡単にいうと、「かんばん」と呼ばれる伝票を、後工程から前工程に指示することを通じて、必要なものを必要なときに必要な場所にそろえる”ジャストインタイム”の概念を実現させるものです。この「かんばん方式」が、世界の製造業のデファクトスタンダードと称されるまでに発展したので す。

一台のクルマの部品点数は3万点とも言われており、一つの自動車工場はおおむね百数十社の部品工場から調達を行っていることから、部品の在庫をいかに少なくするかという観点から「かんばん方式」は生み出されました。「かんばん方式」は、スーパーマーケットからヒントを得て考案されたことから、当初は 「スーパーマーケット方式」と呼ばれていました。

商品名・品番・置き場所など、商品に関する情報が記載されている商品管理用のカードが、スーパーマーケットで使われていたからです。トヨタは、このカード方式を生産管理工程に持ち込んで、それが「かんばん方式」と呼ばれるようになりました。

もっとも、発端は、後工程(部品を使用する側)で生産が計画通りできず部品の置き場がなくなり、前工程(部品を供給する側)に置いたままにしておいてくれないか、と頼みに行ったことからだといわれています。

「かんばん方式」は、品番や品名、箱種や収容数、前工程や後工程等の情報の他に、大きく整理番号(背番号)が書かれた「かんばん」と呼ばれる長方形のビニール袋の中に入っている作業指示票を用い、必要なものを必要な時に生産する方式です。「かんばん」というのは「ひらがな」で書くのが正しい書き方だそうです。つまり、外来語ではないので「カタカナ」で書くのは適当でなく、漢字では単なる表示物の意味合いが強くなるからです。

この方式のポイントは、部品を使用する側(後工程)が「何を、いつ、どれだけ、どのような方法で欲しいのか(使ったのか)」の情報を出し、それに応じて、部品を供給する側(前工程)が、使用量や使用時期に応じて生産量・生産開始時期を自律的に調整する仕組みになっていることです。

かんばん方式は、作り過ぎ・運び過ぎの無駄を抑制し、滞留する部品在庫を極限まで圧縮するとともに、最新の部品在庫を使用することによる品質向上と工程 の遅延を検知すること(「見える化」)にも効果があるとされてきました。最近では、IT(情報技術)の高度化にともなって「電子カンバン」(e-かんばん)に進化しています。

もっとも、トヨタでは「かんばん」の電子化は、IT技術の発達のほかに現実的理由もあったようです。すなわち、トヨタ自動車は愛知県内に部品工場が集中していますから、九州や北海道に工場ができると、「かんばん」が届くまでに多大の時間を要することになったからです。

とまれ、この成功を受けて、今やかんばん方式は多くの企業で「進化」し「多様化」したかたちで採用されるようになりました。身近なところでは、コンビニがその典型でしょう。コンビニでは小さい店舗に驚くほどの商品点数がそろっています。商品全部を在庫しておかなければならないとするなら、今の店舗の何倍もの大きさの倉庫を必要とします。しかし、ご存知のように実際には倉庫がなくても、店舗だけで多量の商品が陳列されています。これは、商品の配送会社とコ ンビニ店をコンピューターで結び、売れた商品名と数を打ち込めば、定時に商品を補充するための配送システムが完成されているからです。

さらにそれは、人間にも応用されたのが派遣会社です。必要な人員を必要な時だけ雇用して労働力を確保しようとするものです。その究極が日雇い派遣です。 いわば人間を部品(派遣社員)と見立てて人員(正社員)の在庫を減らそうという方策です。もっともこれは法律によって認められたものですが、あまり非人間的な扱いが表面化すれば、さらに法改正によって派遣事業のなかでも「日雇い派遣」から認められないという流れが生まれてきます。むろん、これはトヨタ自動車とは何の関係もないことですが、それほど「かんばん方式」は応用範囲が広いということです。

上記のような性質をもつ「かんばん方式」ですが、欠点がないわけではありません。たとえば、震災などの時に部品工場が被害を受けて、部品を供給できなくなると工場のラインがすべて止まってしまいます。

かんばん方式だと、部品工場が発注された分だけ製品を運ぶため、運搬ロットが小さくなり、トラックも頻繁に走るようになります。そのため交通量が増え、渋滞や排出ガスの増加による環境への影響が懸念されます。

また、かんばん方式では、工場のラインを止めることのないように、円滑な人間関係が求められます。これを成功させるには、取引先や従業員のお互いの連帯感や資質の向上が、今まで以上に必要になってきます。終身雇用が広まった日本では、かんばん方式が成功するように思われていますが、多くの日本企業で失敗しています。

プリウスの誕生

最近、環境にやさしいクルマとして一躍脚光を浴びるようになったのがハイブリッドカーです。そもそもハイブリッドカー (Hybrid Car) とは、作動原理が異なる複数の動力源(エンジンとモーター)をもち、状況に応じて単独、あるいは複数と、動力源を変えて走行することが可能な自動車のことです。 

1997年に世界で初めての量産型ハイブリッド車として登場したのがプリウスです。発表当初の燃費は28.0km/L(10・15モード)とガソリンエンジン車としては驚異的なものでした。

しかし、当然のことながら、本来ひとつでよい動力系システムが複数になりますから、搭載しなければならない構成部品も増えるため、コストも重量も増加することになります。トヨタは、売れば売れほど損が出るのを承知で発売した、と言われています。業界では、石橋を叩いても渡らないあのトヨタが、と驚きを もって受けとめられたようです。

ハイブリッドカーは、エンジンとモーターの2つの動力が、それぞれの得意領域を受け持つことで最大限の効率を発揮するよう設計されています。エンジンは走り出すまで時間がかかりますが、いったん走り出してしまうと効率よく走ることができます。

いっぽう電気モーターはその反対で、スタートしてからしばらくはスムーズに走ることができますが、高速で走るのはエンジンと違って向いていません。そこで、スタート時や低速時は電気モーターを使い、加速してからはエンジンを使って走るというのが最も効率がよいわけです。これが、ハイブリッド車の基本にある考え方です。

ハイブリッド車では「回生ブレーキ」というものが重要になってきます。回生とは、「起死回生」という言葉もありますが、生き返ること・よみがえること、を意味します。

ご存知のように物理学の世界には「エネルギー保存の法則」というのがあります。これは、「エネルギーは、全体として増えもしなければ、減りもしない。エ ネルギーの形態が変わることはあっても、全体ではいつも同じ量が保存されている」というものです。エネルギーには、光エネルギー・熱エネルギー・電気エネ ルギー・運動エネルギー等、いろいろな形態がありますが、その総和はいつも一定です。

この観点から「ブレーキをかけて止まる」ということは、つぎのようになります。
ある速度をもって走っている自動車は「運動エネルギー」を持っています。このエネルギーを何か他のエネルギー形態に変えて、「運動エネルギー」をゼロにしてやること、これがすなわち「ブレーキをかけて停止する」という行為に相当します。

たとえば、走っている自動車にブレーキをかけるとき、ディスクローターにブレーキパッドを押さえつけて止めますが、このとき自動車の「運動エネルギー」 はローターとパッドの間の「摩擦熱」に形を変えます。すなわち、「運動エネルギー」から「熱エネルギー」にエネルギー形態を変えることで止まります。では、発生した「熱エネルギー」はどうなるかといえば、そのまま空気中に捨てられてしまいます。

加速し獲得した「運動エネルギー」をブレーキで「熱エネルギー」に変えて、最後には捨ててしまうのですから、考えてみれば非常にもったいない話です。ク ルマでは最大のエネルギーロスであり損失でもあります。その損失をエネルギーに変えてしまおうということで開発されたのが、ハイブリッド車における「回生ブレーキ」です。

プリウスは「運動エネルギー」を回収するため、モーターを発電機として利用し、発電しながら減速する回生ブレーキを使っています。アクセルを離しただけ の時には、この回生ブレーキが弱くかかることにより、普通の自動車のエンジンブレーキに似せて減速させています。このとき発電した「電気エネルギー」は バッテリーに充電されます。

またブレーキペダルを踏み込んだ時には、この回生ブレーキと、普通の摩擦ブレーキを併用して減速します。この割合はコンピューターで制御され、普通の自動車と同じような感覚で減速するよう、しかも最大限にエネルギーが回収されるように、高度な制御がなされています。

つまりプリウスは「捨ててしまっていたエネルギー」を回収し再利用しているということです。これにより、電力は回生ブレーキやエンジンから直接発電され、ユーザーが意識して充電する必要がなくなったのです。

トヨタが自動車生産を停止する日

クルマのエネルギー源は、ここ100年あまりは、豊富に産出されてきたことから石油(ガソリン・軽油)エネルギーの時代だったということができるでしょう。

しかし、これからは、石油資源の枯渇や環境問題、さらには国際情勢の不安定化などから、クルマの動力源は多様化を求められています。

21世紀のあらたなクルマの動力源として期待されるトップバッターは、ハイブリッド車(HV)でした。

HV車は、これまでの熟成されたガソリンエンジンの技術をベースにしたものであり、あらたな動力源としてテークオフさせるには、もっともふさわしいものであったでしょう。

メーカーが次に開発を計画し、完全実用化をめざしたのが、電気自動車(EV)でした。

EV(Electric Vehicle)」は、エコカーと呼ばれる次世代のクルマの中で、最も長い歴史を持ち、その歴史はガソリンエンジンの自動車とほぼ同じといわれています。

しかし今まで普及しなかった原因は、「電気自動車は、コストが高く、航続距離が短く、充電時間が長い」という大きな問題を抱えていたからです。これらはすべてバッテリーの性能が低かったということに起因していました。

そのバッテリーも、昔の鉛電池からニッケル水素バッテリーに進化し、さらに最近では、リチウムイオン電池に徐々に移行してきています。高電圧で小型化が可能なリチウムイオン電池が電気自動車バッテリーの主流になるとみられています。

電気自動車は、外部から充電した電気を動力源にし、モーターで走るクルマです。ガソリン車とちがって、走行時のCO2の排出がまったくないエコカーとして、大きな期待を集めています。

いまは連続走行距離の短さが課題となっていますが、バッテリー性能の向上・充電インフラ施設の充実が図られれば、これからの時代を支える重要な動力源であるのはまちがいありません。

電気自動車は、いま航続距離228kmと言われる日産のリーフ、航続距離180kmと言われる三菱のⅰ-MiEVなどが発売されています。

おそらく、バッテリー性能が向上し航続距離が500kmを超えるか、あるいは、充電インフラ施設(充電ポイントと走行中の路面充電など)が充実すれば、ガソリン車を乗り続ける理由がなくなってくるでしょう。しかし、それがいつになるかまだ、不透明なものがあります。

そこで、ここにきて、プラグインハイブリッド車(PHV)が、発売され注目を集めています。プラグというのは、みなさんご存じのように、電気機器の電源コードの先に付いている差込器具です。

このプラグを使って、家庭用電源などから直接バッテリーに充電できるので、プラグインと呼ばれます。従来のハイブリッド車に比べて電池の搭載量を多くして、モーター駆動での走行距離を長くしました。

ガソリンエンジン車の長距離航続性能を残しながら、電気自動車により近いタイプのハイブリッドカーです。

つまり、充電直後は、その航続可能距離までは電気自動車として使い、それより走行距離が長くなるときは、従来のハイブリッド車と同じくガソリンで走れるという車がプラグインハイブリッド車です。充電インフラを気にしなくてよいのです。

言い換えると、近距離は電気自動車として、長距離は従来のハイブリッド車として走行できるため、EVとHVの長所を併せ持つクルマといえそうです。

EV走行の航続距離が拡大により、CO2排出量やガソリン消費量の低減、さらには、大気汚染防止に加え、電気代も含めたトータルの燃料代が安くなるという利点があります。

しかし、このプラグインハイブリッド車は、期待は大きかったのですが一番の欠点は、EV走行の航続距離の、電気自動車と比べた場合の、短さです。

トヨタの「プリウスPHV」は、満充電状態からのEV(電気自動車)での走行距離は、26km程度だそうです。これでは、航続距離228kmと言われる日産のリーフと比較して、あまりにも短いと感じる方も多いでしょう。燃費の節約度合も、ユーザーの使い方に大きく左右されることは避けられません。

さらに問題なのは、26kmを大きく超えて目的地まで走らなければならないときのユーザーの心理です。せっかくPHVに乗っているという経済的メリットを、失くした状態で長時間走りつづけるのは、愉快なことではないでしょう。

以上、見てきたことから言えるのは、ハイブリッド車(HV)もプラグインハイブリッド車(PHV)も、あくまでも電気自動車(EV) が、バッテリーの性能を向上させるか、充電インフラの施設を充実させるまでの、つなぎのクルマであるという位置づけです。

さて、エコカーというのは、EVやガソリン車部門だけではありません。ディーゼル車にも、クリーンディーゼル車というものが、登場してきました。

ディーゼルエンジンといえば、小排気量で高い出力を出せるものの、黒い煤煙が出る、排出ガスに有害物質が含まれている、エンジン音がうるさいなど、あまりよいイメージはありませんでした。

ディーゼルエンジンは、もともとエンジン効率が高く、Co2排出量が少なくて、ガソリン車に比べて燃費も優れていました。しかし、粒子状物質(PM)や窒素酸化物 (NOx)など大気汚染物質の排出が、ディーゼルエンジンの大きな課題となっていたのです。

それが近年、これまでのディーゼルの弱点であった有害物質を、先進の排出ガス浄化システムの確立により除去することに成功、まったく「汚くない」ディーゼルエンジンが誕生したのです。

これは、「パワフルさ」と「エコ」という、相反する要素を両立させたということです。

この大きな進歩を見せたディーゼルエンジンは、日産のエクストレイル、マツダのCX-5、三菱のパジェロなど、クリーンディーゼルエンジン車として発売されました。

そして、クリーンディーゼルには、燃費の良さに加えて、燃料費が安く抑えられるという、ディーゼル車のもともとのメリットが引き継がれています。

ディーゼルエンジンが使う軽油は、政策的にガソリンよりも安い税金が設定されていますから、軽油の方がリッターあたりの単価が安くなります。燃費がよいだけでなく、燃料も安いのです。

いまのところクリーンディーゼル車は、静かな復活を遂げているという感じですが、こらかの課題となるのは、従前のディーゼルエンジンの良くないイメージをどこまで払拭できるか、ということが大きいでしょう。

もうひとつ、あらたな動力源として、注目する必要があるのは、水素による燃料電池車(FCV)です。

燃料電池(Fuel Cell)とは、物質の化学反応によって電力を発生させる装置のこと。つまり、燃料電池車というのは、燃料電池に水素と酸素(空気)を取り込んで化学反応を起こし、電気を発生させます。その電気でモーターを回して走る車です。

内燃機関は一切搭載されておらず、二酸化炭素などの排出ガスはゼロ。出すのは水だけという、究極のクリーンエンジンを実現するものです。

燃料電池車は、小さな発電所と呼ばれる燃料電池で、水素の充填によって自ら電気をつくるので、充電の必要もありません。タンクへの水素の充填は3~5分というガソリン車並みの短時間で済みます。しかも一回の充填で、ガソリン車と同等の距離を走ることができます。

日本のメーカーは、燃料電池でも、世界の最先端の技術を競っています。2002年には、トヨタとホンダが、それぞれ燃料電池車のリース販売を開始しています。

いまでは、ガソリン車並みの600km~800kmを超える航続距離と室内空間の広さを実現しています。

では、どうして本格的な市販がされていないの?と思われるでしょう。そうです、もちろんこれには、理由があります。

燃料電池車は、新技術の開発費や電池の触媒に白金を使う必要あることなどにより、いまのところ非常に高価で、1台700~800万円と言われるためです。

そのため、当初は官公庁がリース契約で少ない台数を使用しているにすぎない状態でしたが、2014年12月から、723万円の価格でトヨタは市場投入を始めました。

最近は、ハイブリッド車(HV)や電気自動車(EV)のブームに押されて、いったん姿を消したように思われた燃料電池車(FCV)ですが、ここへきて普及への道筋が見えてきたわけです。

トヨタは2015年までに、水素インフラが整備される見込みの大都市周辺で、セダンタイプのFCV新型を一般ユーザー向けに販売する計画です。日産やホンダも2016年をメドにFCVを投入すべく動きだしました。

それにともない、普及の最大のネックとなっている水素供給のインフラ整備を、本格的に進めるそうです。 ガソリン自動車が、ガソリンスタンドで燃料を補給するように、燃料電池車は水素ステーションで燃料となる水素を補給しなければならないからです。

以上、現在の代表的動力源である、ハイブリッドカー (H)・プラグインハイブリッド車(PHV)・クリーンディーゼル車・電気自動車(EV)・燃料電池車(FCV)をみてきましたが、今世紀中には、その役目を終えるとみられる石油エネルギーに代わって主役となるのは、いずれでしょうか?

ガソリンやディ-ゼルなどの内燃機関の時代は終わり、電気自動車(EV)・燃料電池車(FCV)などのモーターを動力源とする電気動力車による新たな時代に突入することはまちがいないでしょう。

そのためかトヨタもようやく、近距離移動に適したクルマとして、EVの開発を進めており、2012年には新型の超小型電気自動車「コムス」を市場に投入しました。

そして、当分のあいだ、電気自動車(EV)と燃料電池車(FCV)の時代がつづくことになるでしょう。しかし、時代の足音は、その電気動力車の時代も長くつづけさることはないでしょう。

それまでの、自動車という概念そのものが通用しなくなるときが必ずやってきます。それは、自動車というものは、陸の道を走るものだからです。

道路を走る自動車というものは、将来的には消滅せざるをえない産業であり、トヨタもその例外ではなく、必ず自動車生産を停止する日がやってきます。

そのときマイカーが走っているのは陸の道でなく、空中を垂直方向にも水平方向にも自由自在に移動する「飛行船」に取って代わられているのは間違いないからです。そのときは、早ければ来世紀中にもやってくるでしょう。

もちろん、ここに言う「飛行船」とは、いわゆる「空飛ぶ自動車」のことではありません。垂直方向にも水平方向にも自由自在に移動することを想定していますから、おそらく反重力システムを利用したものになるでしょう。

創業者の直観なのでしょうか? じつはトヨタ自動車は、本業の自動車以外にもロボットや航空機事業にも関心を示しています。創業者の喜一郎自身が、創業期に自動車開発のかたわら航空機の研究を進めており、1938年(昭和13年)に飛行機のプロペラを製作しているのです。

織機から自動車、そして航空機へ。これはトヨタにとって避けられない道でしょう。その未来を見据えて、トヨタがすでに研究体制に入っているかどうかは不明です。

日本の自動車メーカー

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